【書評】嫌われる勇気①【トラウマを否定せよ】
こんにちは、こうた(@arakou05)です。
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①から読みたい方はこちらです。
>> 嫌われる勇気①【トラウマを否定せよ】
おそらく、ほとんどの方が知っている作品だと思います。全5回に分けて紹介していきたいと思っています。
「トラウマを否定せよ」というテーマにおける内容は以下の通りです。
- 知られざる「第三の巨頭」
- なぜ「人は変われる」なのか
- トラウマは、存在しない
- 人は怒りを捏造する
- 過去に支配されない生き方
- ソクラテスとアドラー
- あなたは「このまま」でいいのか
- あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの
- 人は常に「変わらない」という決心をしている
- あなたの人生は「いま、ここ」で決まる
僕が興味を持った内容について順番に紹介していきます。
この記事の目次
知られざる「第三の巨頭」
アドラー心理学とは、オーストリア出身の精神科医、アルフレッド・アドラーが20世紀初頭に創設した、まったく新しい心理学です。
そして、フロイト、ユングと並ぶ三大巨頭のひとりとして、アドラーの名前も必ず言及されます。
皆さんの中でアドラーを知らなかった人もいるかと思います。アドラー自身、以下のようなことを言っています。
「わたしの名前を誰も思い出さなくなるときが来るかもしれない。アドラー派が存在したことすら、忘れてしまうかもしれない」。しかし彼は、それでもかまわない、と言います。
つまり、学問のための学問ではないということです。
たとえば、スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』でもアドラーの思想に近い内容が語られています。
要するにアドラー心理学は、堅苦しい学問ではなく、人間理解の真理、また到達点として受け入れられているのです。
なぜ「人は変われる」なのか
人は変われるし、誰もが幸せになれるそうです。ここでは、まず「人は変われる」ことについて解説していきます。
ほとんどの人は変わりたいと願っていると思います。しかし、どうして皆さんが「変わりたい」と思っているのでしょうか?
それは、皆さんが変われずにいるからです。
ここで著者は、でも逆になぜ、そうも頑なに人は変われないと主張するのかと問うています。以下では具体例を引用して紹介していきます。
【青年の主張】
わたしの友人に、もう何年も自室にこもりっきりになっている男がいます。彼は外に出たいと願っているし、できることなら仕事を持ちたいとも思っている。いまの自分を「変えたい」と思っているわけです。友人として保証しますが、彼はきわめて真面目で、社会に有用な男です。
しかし、彼は部屋の外に出るのが怖ろしい。一歩でも外に出ると動機がはじまり、手足が震える。一瞬の神経症なのでしょう。変わりたくても、変われないのです。
【先生の質問】
さて、彼が外に出られなくなった理由は、どこにあるのでしょうか?【青年の返答】
ご両親との関係、あるいは学校や職場でいじめを受け、それがトラウマになっているのかもしれない。いや、もしかしたら逆に甘やかされて育ったところがあるのかもしれないな。【先生の疑問】
いずれにせよ、友人の「過去」に、トラウマなり何なりの「原因」となる出来事があった。その結果、彼は外に出られなくなったのだ。そうおっしゃるわけですね?ここで、先生が青年に以下のような確認をとりました。
あなたは「あらゆる結果の前には、原因がある」とおっしゃる。
要するに、現在のわたし(結果)は、過去の出来事(原因)によって規定されるのだ、と。その理解でいいのですね?
でも先生は、それは「おかしなこと」であると主張します。
過去の原因にばかり目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、話は自ずと「決定論」に行き着きます。
すなわち、私たちの現在、そして未来はすべてが過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのなものである。
先生は、「過去など関係ない」と主張しています。
アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えるのです。
つまり、友人には「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情を生み出しているのです。
アドラー心理学では、これを「目的論」と呼びます。
トラウマは、存在しない
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定しています。
アドラーはトラウマの議論を否定するなかで、以下のように語っています。
「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。私たちは自分の経験によるショック、いわゆるトラウマに苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。
自分の経験によって決定されるものではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」と。
アドラーが「経験それ自体」ではなく、「経験に与える意味」によって自らを決定する、と語っているところに注目しましょう。
たとえば、以下の出来事が人格形成に及ぼす影響がゼロだとは言いません。
- 大きな災害に見舞われた
- 幼い頃に虐待を受けていた
しかし大切なのは、それによってなにかが決定されるわけではない、ということです。
人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。
下記では、引きこもりの人について詳しく解説していきます。
引きこもりの人は、自室に引きこもるという行為を自分で選んだのではなく、選ばされたのでしょうか?
結論から言うと、それは選ばられたのではなく、自分で選択したのです。
それは「外に出ない」という目的でしょう。
なぜ外に出たくないのかというと、
- 自室にいれば親が心配してくれる
- 親の注目を一身に集めることができる
- まるで腫れ物に触れるように、丁寧に扱ってくれる
もし、家から一歩でも外に出てしまうと
- 誰からも注目されない「その他大勢」になる
- 見知らぬ人に囲まれ、凡庸なるわたし
- 他者より見劣りしたわたしになる
- そして誰もわたしを大切に扱ってくれなくなる
この話は引きこもりの人によくある話です。
なので、その友人は自分の「目的」に沿った行動をとっているのです。ただ、不満あるでしょうし、幸福というわけではないでしょう。
わたしたちは皆、なにかしらの「目的」に沿って生きている、のです。
人は怒りを捏造する
ほとんどの人は、ムカついたから大声を出して怒ったり、手が出たりすると考えると思います。
つまり、「怒りに駆られて、大声を出した」と思っているでしょう。でもそれは間違いです。
そこである話を紹介します。
あるとき、母親と娘が大声をあげて口論していたそうです。すると突然、電話のベルがなりました。「もしもし?」慌てて受話器をとった母親の声には、まだ怒りの感情がこもっています。
ところが電話主は、娘が通う学校の先生でした。そうと気づいた途端、母親の声色は丁寧なものに変化します。そのままよそ行きの声で5分ほど会話を交わし、受話器をおきました。と同時に、再び血相を変えて娘に怒鳴りはじめたのです。
要するに、怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです。
ただ大声で娘を威圧するため、それによって自分の主張を押し通すために、怒りの感情を使っているのです。
過去に支配されない生き方
人は感情に支配されず、過去にも支配されません。
- たとえばある人の過去に、両親の離婚という出来事があったとします。→これは18度の井戸水と同じ、客観の話です。
- 一方で、その出来事を冷たいと感じるか温かいと感じるか。→これは「いま」の、そして主観の話です。
過去にどんな出来事があったとしても、そこにどんな意味づけを施すかによって、現在のあり方は決まってくるのです。
問題は「なにがあったか」ではなく、「どう解釈したか」です。
人は常に「変わらない」という決心をしている
多くの人は、少しくらい不便で不自由なところがあっても、いまのライフスタイルのほうが使いやすく、そのまま変えずにいるほうが楽だと思っているでしょう。
もしも「このままのわたし」であり続ければ、目の前の出来事にどう対処すればいいか、そしてその結果どんなことが起こるのか、経験から推測できます。
いわば、乗り馴れた車を運転しているような状態です。多少のガタがきていても、織り込み済みで乗りこなすことができるわけです。
未来が見通しづらくなるし、不安だらけの生を送ることになるでしょう。もっと苦しく、もっと不幸な生が待っているかもしれない。
つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。
ライフスタイルを変えようとするとき、わたしたちは大きな「勇気」を試されます。
- 変わることで生まれる「不安」
- 変わらないことでつきまとう「不満」
きっと、多く人は後者を選択するでしょう。でも本当にそれでいいのでしょうか?
アドラー心理学は、勇気の心理学です。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。
あなたには、ただ「勇気」が足りない。言うなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。
あなたの人生は「いま、ここ」で決まる
いまの生活に不満がある人が、幸せになるにはどうすればいいのでしょうか?
最初にやるべきことは、「いまのライフスタイルをやめる」という決心です。
ここである話を引用して紹介します。
友人の一人に、小説家になることを夢見ながら、なかなか作品を書き上げられない人がいます。
彼によると、仕事が忙しくて小説を書く時間もままならない、だから書き上げられないし、賞の応募に至らないのだそうです。
しかし、果たしてそうでしょうか。実際のところは、応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいのです。
人の評価にさらされたくないし、ましてや駄作を書き上げて落選する、という現実に直面したくない。
- 時間さえあればできる
- 環境さえ整えば書ける
- 自分にはその才能があるのだ
これらの可能性の中に生きていたいのです。
賞に応募して、落選するならすればいいのです。
そうすればもっと成長できるかもしれないし、あるいは別の道に進むべきだと理解するかもしれない。
いずれにせよ、前に進むことができます。
いまのライフスタイルを変えるとは、そういうことです。応募しないままでは、どこにも進めません。
自分の人生を決めるのは、「いま、ここ」に生きるあなたなのだ、と。
次回の記事はこちらです。
>> 嫌われる勇気②【すべての悩みは対人関係】