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【書評】嫌われる勇気②【すべての悩みは対人関係】

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今回は「嫌われる勇気」の第2夜の「すべての悩みは対人関係」について書評していきます。たしかにストレスを抱えるほとんどは、対人関係から生まれていると思います。本記事で解説していきます。

こんにちは、こうた(@arakou05)です。

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Webライター時代のこと語ってます >> 【経験談】新卒フリーランスは甘いのか?【2年間を振り返る】

①から読みたい方はこちらです。
>> 嫌われる勇気①【トラウマを否定せよ】

社会人の人は特に、人間関係でストレスを感じているのはないでしょうか?そういった方に少しでも、参考になるようにまとめていきます。

「すべての悩みは対人関係」というテーマにおける内容は以下の通りです。

  • なぜ自分のことが嫌いなのか
  • すべての悩みは「対人関係の悩み」である
  • 劣等感は、主観的な思い込み
  • 言い訳としての劣等コンプレックス
  • 自慢する人は、劣等感を感じている
  • 人生は他者との競争ではない
  • 「お前の顔を気にしているのはお前だけ」
  • 権力争いから復讐へ
  • 非を認めることは「負け」じゃない
  • 直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか
  • 赤い糸と頑強な鎖
  • 「人生の嘘」から目を逸らすな
  • 所有の心理学から使用の心理学へ

僕が気になった目次について紹介していきます。

なぜ自分のことが嫌いなのか


本書に登場してくる青年は、自分には長所がなく短所しかないと感じています。

要するに、自己評価が著しく低いわけです。問題は、2つあります。

  • なぜそれほど卑屈に感じるのか
  • どうして自分のことを低く見積もっているのか

短所ばかりが目についてしまうのは、「自分を好きにならないでおこう」と、決心しているからです。

自分を好きにならないという目的を達成するために、長所を見ないで短所だけに注目しています。

ここである女学生の話を引用して紹介します。

彼女の悩みは赤面症でした。人前に出ると赤面してしまう、どうしても赤面症を治したい、と言います。そこでわたしは聞きました。

「もしもその赤面症が治ったら、あなたはなにがしたいですか?」。

すると彼女は、お付き合いしたい男性がいる、と教えてくれました。密かに思いを寄せつつも、まだ気持ちを打ち明けられない男性がいる。

赤面症が治った暁には、その彼に告白してお付き合いしたいのだ、と。

でも、果たして本当にそうでしょうか?

  • どうして彼女は赤面症になったのか
  • どうして赤面症は治らないのか

それは、彼女自身が「赤面という症状を必要としている」からです。

彼女にとって、いちばん怖ろしいこと、いちばん避けたいことは、「彼に振られてしまう」ことです。

失恋によって、「わたし」の存在や可能性をすべて否定されることです。

ところが、赤面症を持っているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。

  • 告白の勇気を振り絞らずに済む
  • たとえ振られようと自分を納得させることができる
  • 「もしも赤面症が治ったらわたしだって、、、」と可能性のなかに生きることができる

つまり、告白できずにいる自分への言い訳として、あるいは彼から振られた時の保険として、赤面症をこしらえているのです。

そこで先生は彼女にこう話しました。

「赤面症くらい、簡単に治りますよ」

「ほんとうですか?」

「でも、わたしは治しません」

「なぜ?」

「だって、あなたは赤面症があるおかげで、自分や世の中への不満、うまくいかない人生を納得させることができている。これは赤面症があるせいだ、とね」

ここで彼女にできるアドバイスとしては、

  1. まずは「いまの自分」を受け入れてもらう
  2. たとえ結果がどうであったとしても前に踏み出す勇気を持ってもらう

これをアドラー心理学では、「勇気づけ」と呼んでいます。

話は戻りますが、自分の短所ばかりが目について、自分を好きになれない青年が、なぜ自分が嫌いなのか

それは、他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に怖れているからです。

この青年は、以下のようなことをを怖れているのです。

  • 他者から否定されること
  • 誰かから小馬鹿にされること
  • 拒絶され、心に深い傷を負うこと

そんな事態に巻き込まれるくらいなら、最初から誰とも関わりを持たないほうがマシだと思っています。

つまり彼の目的は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」です。

アドラーはこう言っています。

悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない」のだと。しかし、そんなことはできません。

すべての悩みは「対人関係の悩み」である


ただひとりで生きていたら、猛烈な孤独に襲われると考える人は少なくないでしょう。

でも孤独を感じるのは、あなたがひとりだからではありません。

あなたを取り巻く他者、社会、共同体があり、そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのです。

わたしたちは孤独を感じるのにも、他者を必要とします。

そして、アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言しています。

なので、個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しないのです。

どんな種類の悩みであれ、そこにはかならず他者の影が介在しています。

以下で具体的に解説していきましょう。

劣等感は、主観的な思い込み


実は、劣等感という言葉を現在語られているような分脈で使ったのは、アドラーが最初だと言われています。

アドラーの使ったドイツ語では、劣等感のことを「Minderwertigkeit」といいます。以下の意味があります。

  • 「価値」
  • 「より少ない」
  • 「感覚」

つまり劣等感とは、自らへの価値判断に関わる言葉なのです。自分には価値はないのだ、この程度の価値しかないのだ、といった感覚です。

ここでアドラー自身の劣等感について紹介していきます。

身体的な特徴として、アドラーは155㎝で小柄です。若い頃アドラーは、自分の身長について思い悩んでいたそうです。

もし人並みの身長があれば、あと20㎝、いやせめて10㎝でも身長が高ければ、何か変わるんじゃないか。もっと楽しい人生が待っているのではないか。

そう思ってあるとき友人に相談したところ、彼は「くだらない」と一蹴したのです。

続けて、彼はこう言いました。「大きくなってどうする?お前には人をくつろがせる才能があるんだ」と。

たしかに、大柄で屈強な男性は、それだけで相手を威圧してしまうところがあるのかもしれません。

一方、小柄なアドラーであれば、相手も警戒心を解いてくれるでしょう。

そこで小柄であることは自分にとって周囲の人にとっても、好ましいことなのだと思わされたのです。

つまり価値の転換です。

ここで大切なのは、155㎝というアドラーの身長が「劣等生」ではなかった、とうことです。

事実として、なにかが欠けていたり、劣っていたりするわけではなかったのです。

たしかに155センチという身長は平均よりも低く、なおかつ客観的に測定された数字です。一見すると、劣等生に思えるでしょう。

しかし問題は、その身長についてアドラー自身が以下のようなことをするかどうかです。

  • どのような意味づけをほどこすか
  • どのような価値を与えるか
アドラーが自分の身長に感じていたのは、あくまでも他者との比較、つまりは対人関係の中で生まれた、主観的な「劣等感」だったのです。

もしも比べるべき他者が存在しなければ、アドラーは自分の身長が低いなどと思いもしなかったはずです。

ほとんどの方が抱えている、それは客観的な「劣等生」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解してください。

友人が言ってくれた「お前には人をくつろがせる才能があるんだ」という言葉によって気づいたのです。

自分の身長も「人をくつろがせる」とか「他者を威圧しない」という観点からみると、それなりの長所になりうるのだ、と。

もちろん、これは主観的な解釈です。ところが、主観にはひとつだけいいところがあります。

それは、自分の手で選択可能だということです。

  • 長所と見るのか
  • それとも短所と見るのか

自分の身長について、上記のように見ることで、いずれも主観に委ねられているからこそ、アドラーはどちらを選ぶこともできるのです。

ライフスタイルを選びなおす、ということに繋がります。

わたしたちは、客観的な事実を動かすことはできません。しかし主観的な解釈はいくらでも動かすことができるのです。

そしてわたしたちは主観的な世界の住人である。

例えば、高値で取引されるダイヤモンド。あるいは貨幣。わたしたちはここに何らかの価値を見出し、1カラットでいくらだとか、物価がどうしたとか言っています。

しかしダイヤモンドなど、見方を変えればただの石ころに過ぎません。             

つまり価値とは、社会的な分脈の上で成立しているものなのです。

「お前の顔を気にしているのはお前だけ」


対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。

それは、競争の先には、勝者と敗者がいるからです。

競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感です。常に自分と他者とを引き比べて、あの人には勝った、この人には負けた、と考えているのです。

たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争のなかに身を置いている人は心の休まる暇がありません。敗者になりたくない。   

そして敗者にならないためには、常に勝ち続けなければならないのです。他者を信じることができない。

社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。彼らにとっての世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。

しかし実際のところ、他者はそれほどにも「あなた」を見ているでしょうか?

あなたを24時間監視し、隙あらば攻撃してやろうと、その機会を虎視眈々とさぐっているでしょうか?おそらく違うでしょう。

アドラーの若い友人が少年時代、長いこと鏡に向かって髪を整えていたそうです。すると彼は、祖母にこう言われました。

お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」と。

話は変わりますが、本書に登場してくる青年はこう言いました。

幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」と。

それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。

しかし、ひとたび競争の図式から解放されれば、誰かに勝つ必要がなくなります。「負けるかもしれない」という恐怖からも解放されます。

「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の捉え方はまったく違ったものになります。

世界を危険な場所だと思うこともなく、世界は安全で快適な場所に映ります。

非を認めることは「負け」じゃない

突然ですが、もし面と向かって人格攻撃をされた場合どうすればいいのでしょうか?ひたすら我慢すればいいのでしょうか?

いや、「我慢する」という発想は、あなたがいまだに権力争いにとらわれている証拠です。

相手が闘いを挑んできたら、そしてそれが権力争いだと察知したら、

  • いち早く争いから降りる
  • 相手のアクションに対してリアクションを返さない

わたしたちにできるのは、それだけです。

ここでまず理解しておきたいのは、「怒り」とはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ「怒り」を使わないコミュニケーションは可能である、ことです。

わたしたちは「怒り」を使わなくても意思の疎通はできるし、自分を受け入れてもらうことも可能です。それが経験的にわかってくれば、自然と怒りの感情も出なくなります。

怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。

だからこそ、「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまうのです。怒りを頼りにコミュニケーションしてしまいます。

権力争いについて、もうひとつ紹介します。

いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。

人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。

わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。

つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまうのです。

そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。

あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。

負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまいます。

  • 誤りを認めること
  • 謝罪の言葉を述べること
  • 権力争いから降りること

これらはいずれも「負け」ではありません。

直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか

どうしてこの青年が他者を「敵」だと見なし、「仲間」だと思えないのか。

それは、勇気をくじかれたあなたが「人生のタスク」から逃げているせいです。

アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について、かなりはっきりとした目標を掲げています。

  • 行動面の目標→「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」
  • 心理面の目標→「わたしには能力がある」と「人々はわたしの仲間である」

そしてこれらの目標は、「人生のタスク」と向き合うことで達成できるわけです。人生のタスクは以下の3つに分けられます。

  • 「仕事のタスク」→精神的に自立するのはもちろん、社会的な意味でも自立し、何かしらの仕事に従事する
  • 「交友のタスク」→成長していく過程でさまざまな交友関係を持つことになる
  • 「愛のタスク」→誰かと恋愛関係を結び、それが結婚につながることもある

これはもっぱら対人関係を軸とした話です。対人関係の距離と深さ、ですね。

ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係。それが人生のタスクです。

「仕事のタスク」

どんな種類の仕事であれ、ひとりで完結する仕事はありません。

ただし、距離と深さという観点から考えると、仕事の対人関係は最もハードルが低いと言えます。

仕事の対人関係は、成果というわかりやすい共通の目標があるので、少しくらい気が合わなくても協力できるし、協力せざるをえないところがあります。

そして「仕事」の一点によって結ばれている関係であるかぎり、就業時間が終わったり転職したりすれば、他人の関係に戻れます。

そして、この段階の対人関係でつまずいてしまったのが、ニートや引きこもりと呼ばれる人たちです。

「交友のタスク」

仕事のような強制力が働かないだけに、踏み出すのも深めるのも難しい関係になります。

友達が多いほどいいと思っている人は大勢いますが、果たしてそうでしょうか?

友達や知り合いの数には、何の価値もありません。これは愛のタスクともつながる話ですが、考えるべきは関係の距離と深さなのです。

「愛のタスク」


愛のタスクは以下の2つに分けられます。ちなみに、愛のタスクがもっとも難しいタスクになります。

  • 恋愛関係
  • 親子関係

たとえば、友人関係から恋愛に発展したとき、友達のあいだは許せていた言動が、恋人になった途端に許せなくなることがあります。

具体的には、異性の友達と遊んでいるのが許せなかったり、場合によっては異性の誰かと電話しているだけで嫉妬したりする。

しかしアドラーは、相手を束縛することを認めません。相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することができる。それが愛なのです。

一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛とは呼べません

人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができます。

  • 劣等感を抱くわけでもなく
  • 優越性を誇示する必要にも駆られない
  • 平穏なきわめて自然な状態でいられる

本当の愛とは、上記ようなことです。

一方の束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考えでもあります。

自分に不信感を抱いている相手と同じ空間にいて、自然な状態でいることなどできませんよね?

一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない」のです。

ただし、恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢があります。ところが、親子関係では原則としてそれができません。親子関係の難しさはここにあります

そこでどうすればいいのかというと、逃げてはならない、ということです。

どれほど困難に思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。

まず向かい合う。いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。

次回の記事はこちらです。
>> 嫌われる勇気③【他者の課題を切り捨てる】