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【書評】嫌われる勇気③【他者の課題を切り捨てる】

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今回は「嫌われる勇気」の第3夜の「他者の課題を切り捨てる」について書評していきます。自分の課題と他者の課題を分けて考えることはとても重要です。本記事で解説していきます。

こんにちは、こうた(@arakou05)です。

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Webライター時代のこと語ってます >> 【経験談】新卒フリーランスは甘いのか?【2年間を振り返る】

①から読みたい方はこちらです。
>> 嫌われる勇気①【トラウマを否定せよ】

「他者の課題を切り捨てる」というテーマにおける内容は以下の通りです。

  • 承認欲求を否定する
  • 「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない
  • 「課題の分離」とはなにか
  • 他者の課題を切り捨てよ
  • 対人関係の悩みを一気に解消する方法
  • 「ゴルディオスの結び目」を断て
  • 承認欲求は不自由を強いる
  • ほんとうの自由とはなにか
  • 対人関係のカードは、「わたし」が握っている

僕が気になった目次について紹介していきます。

承認欲求を否定する


突然ですが仮にあなたが、金銭的な自由を手に入れたとします。そして巨万の富を得てもなお、幸福になれないとします。

このとき、あなたに残っているのは、どんな悩み、どんな不自由でしょうか?

  • 対人関係:愛する人がいない、親友と呼ぶべき仲間がいない、みんなから嫌われている
  • しがらみ:好きでもない人間と付き合わなくちゃいけない、嫌な上司の機嫌を伺わなければいけない

いったい、対人関係の何がわたしたちの自由を奪っているのでしょうか?

本書に登場している青年は親の存在について話しています。

両親は厳しい人で、常に兄と比べて青年を認めようとしませんでした。そしてずっと口を挟み続けてきたのです。

  • もっと勉強しろ
  • そんな友達とは付き合うな
  • 最低でもこの学校に行け
  • こんな仕事に就け

これらがまさしく「しらがみ」だったのです。

ただ、青年は両親の意に添って進学先を決めました。その時の感情には、安堵感があったそうです。

この学校ならさすがに認めてもらえるだろう、と。いわゆる「承認欲求」です。

でもアドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定しています。他者から承認される必要はなく、むしろ承認を求めてはいけないのです。

なぜ承認欲求を否定しているのでしょうか?以下で解説していきましょう。

「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない


他者から承認されることは、たしかに嬉しいものです。

しかし、承認されることが絶対に必要なのかというと、それは違います。

  • そもそも、どうして承認を求めるのでしょうか?
  • なぜ、他者から褒められたいと思うのでしょうか?

以下では、身近な場面で考えていきます。

たとえばあなたが職場でゴミ拾いをしたとします。それでも、周囲の人々は全く気づかない。あるいは、気づいたとしても誰からも感謝してもらえず、お礼の言葉ひとつかけてもらえない。

さて、あなたはその後もゴミ拾いを続けますか?

ほとんどの人は、誰からも感謝されないのであれば、やめてしまうでしょう。

というのも、ゴミを拾うのは「みんなのため」で、みんなのために汗を流しているのに、感謝の言葉ひとつもらえない。だったらやる気も失せるからです。

ただ、承認欲求の危うさは、ここにあります。いったいどうして人は、他者からの承認欲求を求めるのか?

多くの場合それは、「賞罰教育」の影響です。

  • 適切な行動をとったら褒めてもらえる
  • 不適切な行動をとったら、罰せられる

アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。

賞罰教育の先に生まれるのは、以下のような誤ったライフスタイルです。

  • 「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」
  • 「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」

わたしたちは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。他者の期待など、満たす必要はないのです。

ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。

自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。

あなたは、あなただけの人生を生きています。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。

そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか?

他者から承認を求め、他者からの評価を気にしていると、最終的に他者の人生を生きることになります。

承認されることを願いすぎると、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになるのです。

つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになります。他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。

なので相手が、自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません

ここまで話しても、まだ承認欲求は必要だと思いますか?

もしも承認を得られたとして、ほんとうに幸福だと言えますか?社会的地位を確立した人々は、幸福を実感できていますか?

他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とします。

しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。

なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。

じゃあ身勝手になれ、というわけでもありません。

ここを理解するには、アドラー心理学における「課題の分離」という考え方を知る必要があります。下記で詳しく見ていきましょう。

「課題の分離」とはなにか


たとえば、なかなか勉強しない子どもがいるとします。

  • 授業は聞かない
  • 宿題もやらない
  • 教科書すらも学校に置いてくる

さて、もしもあなたが親だったら、どうするでしょうか?

ここでもしも、強制的な手法で勉強させたらその結果、子どもは勉強が好きになるでしょうか?

以下ではアドラー心理学の基本的なスタンスから話していきます。

たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます

  • 子どもが勉強するのかしないのか
  • 子どもが友達と遊びに行くのか行かないのか

本来これらは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません

勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。

これでは衝突を避けることはできないでしょう。

わたしたちは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。

他者の課題に踏み込まないだけです。

およそあらゆる対人関係のトラブルは、以下の2つによって引き起こされます。

  1. 他者の課題に土足で踏み込むこと
  2. あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること

誰の課題かを見分ける方法は、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えることです。

もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末は、

  • 授業についていけなくなる
  • 希望の学校に入れなくなる

というように、最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。間違いなく子どもです。

世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。

しかし、親たちは明らかに自分の目的↓

  • 世間体や見栄
  • 支配欲

これらを満たすために動いています

つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。

そうすると、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と解釈する人もいるでしょう。

ここは注意が必要です。アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません

放任とは、子どもが何をしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。

そうではなく、子どもが何をしているのか知った上で、見守ること

勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておきます。

けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。

精いっぱいの援助はします。しかし、その先にまでは踏み込めない。

ある国に「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」ということわざがあります。

他者への援助全般も、そういうスタンスだと考えてください。

他者の課題を切り捨てよ


たとえば引きこもりのような場合はどうなのでしょうか?それでも課題の分離だ、土足で介入するな、親には関係ない、というのでしょうか?

  • 引きこもっている状態から抜け出すか抜け出さないのか
  • あるいはどうやって抜け出すのか

これらは原則として本人が解決するべき課題です。親が介入することではありません。

とはいえ、赤の他人ではないのですから、なんらかの援助は必要でしょう。

このとき、もっとも大切なのは、子どもが窮地に陥ったとき、素直に親に相談しようと思えるか、普段からそれだけの信頼関係を築けているのか、になります。

本書に出てくる先生のお子さんが引きこもっていた場合は、どうするのでしょうか?先生の考えを紹介します。

  1. まずは「これは子どもの課題なのだ」と考える
  2. 引きこもっている状況について介入しようとしない
  3. 適度に注目することもやめる
  4. その上で、困ったときにはいつでも援助する用意がある、というメッセージを送っておく

上記のような態度をとると、親の変化を察知した子どもは、今後どうするのかについて自分の課題として考えざるを得なくなります

援助を求めてくることもあるでしょうし。独力でなんとかしようとすることもあるでしょう。

子どもとの関係に悩んでいる親は、「子どもこそ我が人生」だと考えてしまいがちです。

要するに、子どもの課題までも自分の課題だと思って抱え込んでいるのです。

しかし、どれだけ子どもの課題を背負いこんだところで、子どもは独立した個人です。親の思い通りになるものではありません。

進学先や就職先、結婚相手、あるいは日常の些細な言動でも、自分の希望通りには動いてくれないのです。

当然、心配にもなるし、介入したくなることもあるでしょう。でも、「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。

たとえ我が子であっても、親の期待を満たすために生きているのではないのです。

また、信じるという行為も課題の分離です。

  • あなたの課題→相手のことを信じること
  • 他者の課題→あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くか

そこの線引きをしないままに自分の希望を押しつけると、たちまちストーカー的な「介入」になってしまいます。

たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるのか、愛することができるのか、アドラーの語る「愛のタスク」には、そこまでの問いかけが含まれています。

以下の行為は、自分の人生を重く苦しいものにしてしまいます。

  • 他者の課題に介入すること
  • 他者の課題を抱え込んでしまうこと

もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら、その悩みは対人関係なので、まずは「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる

これらが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩です。

次回の記事はこちらです。
>> 嫌われる勇気④【世界の中心はどこにあるか】