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【書評】嫌われる勇気⑤【いま、ここを真剣に生きる】

Book(書評)

今回は「嫌われる勇気」の第5夜の「いま、ここを真剣に生きる」について書評していきます。いまにフォーカスして何かに取り組むことで、幸せになる。本記事で解説していきます。

こんにちは、こうた(@arakou05)です。

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Webライター時代のこと語ってます >> 【経験談】新卒フリーランスは甘いのか?【2年間を振り返る】

①から読みたい方はこちらです。
>> 嫌われる勇気①【トラウマを否定せよ】

「いま、ここを真剣に生きる」というテーマにおける内容は以下の通りです。

  • 過剰な自意識が、自分にブレーキをかける
  • 自己肯定ではなく、自己受容
  • 信用と信頼はなにが違うのか
  • 仕事の本質は、他者への貢献
  • 若者は大人よりも前を歩いている
  • ワーカホリックは人生の嘘
  • 人はいま、この瞬間から幸せになることができる
  • 「特別な存在」でありたい人が進む、ふたつの道
  • 普通であることの勇気
  • 人生とは連続する刹那である
  • ダンスをするように生きる
  • 「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ
  • 人生最大の嘘
  • 無意味な人生に「意味」を与えよ

僕が気になった目次について紹介していきます。

自己肯定ではなく、自己受容


青年の「自意識がブレーキをかけ、無邪気に振る舞うことができない」という話を深掘りします。

これは多くの人が実感している悩みかもしれません。

あなたは無邪気な振る舞いにブレーキをかけることで、何を得ようとしているのでしょうか?

この青年は、以下のように答えました。

  • 笑われたくない
  • 馬鹿なやつだと思われたくない

つまり、青年は無邪気な自分、ありのままの自分に自信を持てていないということでしょう。

そしてありのままの自分による対人関係を回避しようとしているのです。

ひとりであれば、誰もが王のように振る舞える。

「無邪気な自分」がいないのではなく、ただ人前でそれができないというだけのことなのです。

どうすればいいのかというと、やはり「共同体感覚」です。具体的には、自己への執着を他者への関心に切り替え、共同体感覚を持てるようになること

そこで必要になるのが、以下の3つです。

  • 「自己受容」
  • 「他者信頼」
  • 「他者貢献」

「自己受容」


わたしたちは「わたし」という容れ物を捨てることもできないし、交換することもできません。

しかし、大切なのは「与えられたものをどう使うか」です。「わたし」に対する見方を変え、いわば使い方を変えていくことです。

これはポジティブになって自分を肯定するわけではなく、自己受容です。

  • 自己肯定→できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけること
  • 自己受容→仮にできないとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと

自己肯定」は、自らに嘘をつく生き方であるとも言えます。一方で、「自己受容」は、自らに嘘をつくものではありません

もっとわかりやすくいうと、

  • 自己肯定→60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで、ほんとうの自分は100点なんだ」と言い聞かせる
  • 自己受容→60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で、「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考える

ここで「肯定的なあきらめ」について解説します。

課題の分離もそうですが、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。

わたしたちは「なにが与えられているか」について、変えることはできませんが、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます

だったら「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。

変えられないものについて、

  • 交換不能なものを受け入れること
  • ありのままの「わたし」を受け入れること

変えられるものについて、

  • 変えていく「勇気」を持つこと

「他者信頼」


ここでは「信じる」という言葉を、信用と信頼に区別して考えます。

まず、信用とは「条件つき」の話です。

たとえば銀行でお金を借りようとしたとき、なにかしらの担保が必要になります。銀行はその担保の勝ちに対して「それではこれだけお貸ししましょう」と、貸し出し金額を算出します。

  • 「あなたが返済してくれるのなら貸す」
  • 「あなたが返済可能な分だけ貸す」

これらの態度は、信頼しているのではありません。信用です。

これに対して、対人関係の基礎は信用ではなく、「信頼」によって成立しています。

この場合の信頼とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。

たとえ信用に足るだけの客観的根拠がなかろうと、信じるのです。担保のことなど考えず、無条件に信じる。それが信頼です。

でも、だまされて利用されることだってあるでしょう。しかし、ご自身が裏切った側の立場になって考えてみてください。

  • あなたから裏切られてもなお、無条件に信じ続けてくれる人がいる
  • どんな仕打ちを受けても、信頼してくれる人がいる

そんな人に対して、あなたは何度も背信行為を働くことができるでしょうか?

ちなみ「信頼」の反対にあるのは、「懐疑」です。

仮にあなたが、対人関係の基礎に「懐疑」を置いたとしましょう。他者を疑い、友人を疑い、家族や恋人までも疑いながら生きている、と。

いったいそこから、どんな関係が生まれるでしょうか?

あなたが疑いの目を向けていることは、相手も瞬時に察知します。「この人はわたしのことを信頼してしない」と、直感的に理解します。

そこからなにかしらの前向きな関係が築けるのでしょうか?

わたしたちは無条件の信頼を置くからこそ、深い関係が築けるのです。

多くの方はいま、「誰かを無条件に信頼したところで、裏切られるだけだ」と思っているでしょう。

しかし、裏切るのか裏切らないのかを決めるのは、あなたではありません。それは他者の課題です。

あなたはただ「わたしがどうするのか」だけを考えればいいのです。

「相手が裏切らないのなら、わたしも与えましょう」というのは、担保や条件に基づく信用の関係でしかありません。

ここで注意したいのは、あらゆる他者を信頼し、どんなにだまされても信じ続けろ、というわけではないことです。

アドラー心理学は、道徳的価値観に基づいて「他者を無条件に信頼しなさい」と説いてるわけではありません

無条件の信頼とは、以下を達成するための「手段」です。

  • 対人関係をよくするため
  • 横の関係を築いていくため

もし、あなたがその人との関係をよくしたいと思わないのなら、ハサミで断ち切っても構いません。断ち切ることについては、あなたの課題なのですから。

またたとえば、恋愛関係において「彼女は浮気をしているかもしれない」と疑念を抱いたとしましょう。

そして、相手が浮気をしている証拠を探そうと躍起になる。結果どうなるでしょうか?

  • 相手の何気ない言動
  • 誰かと電話で話しているときの口調
  • 連絡が取れない時間

疑いの目を持ってみれば、ありとあらゆることが「浮気をしている証拠」に映ります。たとえ事実はそうでなかったとしても、です。

このように考えている人は、以下のようなことばかり考えています。

  • しきりに「裏切られたとき」のことばかり心配している
  • そこで受ける傷の痛みにばかり注目している

しかし、信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことができないのです。

浅い関係であれば、破綻したときの痛みは小さい。しかしその関係から生まれる日々の喜びもまた、小さいはずです

「他者信頼」によってもっと深い関係に踏み込む勇気を持ちえてこそ、対人関係の喜びは増し、人生の喜びも増えていくのです。

そこで、裏切られることの恐怖を踏み越える勇気は、どこから出てくるのでしょうか?

それは、自己受容です。

ありのままの自分を受け入れ、以下のことを見極めることさえできれば、裏切りが他者の課題であることも理解できるし、他者信頼に踏み込むこともできるでしょう。

  • 「自分にできること」
  • 「自分にできないこと」

裏切られたときの悲しみや怒りはどうすればいいのでしょうか?

悲しいときには、思いっきり悲しめばいいのです。痛みや悲しみを避けようとするからこそ、身動きが取れず、誰とも深い関係が築けなくなるからです。

「他者貢献」


「他者貢献」とは、仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくことです。

他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではありません

むしろアドラーは、他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを、「社会に過度に適応した人」であるとして、警鐘を鳴らしています。

つまり他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。

人はいま、この瞬間から幸せになることができる


アドラーの孫弟子であるオスカー・クリステンセンはこう言いました。

「今日わたしの話を聞いた人は、いまこの瞬間から幸福になることができます。しかし、そうでない人は、いつまでも幸福になることができません」

この言葉を聞いても、すぐに納得できる人は少ないでしょう。

話は変わりますが、人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。

この現実に対してアドラーは、以下の思いだけが自らに価値があることを実感させてくれると言っていたましたね。いわゆる他者貢献です。

  • 「わたしは共同体にとって有益である」
  • 「わたしは誰かの役に立っている」

そしてここが大切なのですが、この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくとも構わないのです。

あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではないのです。

ほんとうに貢献できたかどうかなど、原理的に分かりえない

つまり他者貢献していくときのわたしたちは、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのです。

要するに「幸福とは、貢献感である」。

ではどうすれば貢献感を得られるのでしょうか?

以下のことを実現させるには、「わたしは誰かの役立っている」という貢献感がほしいのです。

  • 人は自分を好きになりたい
  • 自分には価値があるのだと思いたい

そして貢献感を得るための手近な手段として、他者からの承認を求めているのです。

でも、承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がありません。

共同体感覚さえあれば、承認欲求は消えるのです。

「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ


突然ですが、自分が劇場の舞台に立っている姿を想像してみてください。

このとき、会場全体に蛍光灯がついていれば、客席のいちばん奥まで見渡せるでしょう。しかし、自分に強烈なスポットライトが当たっていれば、最前列さえ見えなくなるはずです。

わたしたちの人生もまったく同じです。

人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや、見えるような気がしてしまうのです。

ただ、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。

わたしたちはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。

過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとした光のなかに生きている証です。

人生は連続する刹那であり、過去も未来もありません

あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしていませんか?

過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではないのです。

「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉などでてきません。

もしもフロイト的な原因論に立ってみると、以下のような人生を因果律に基づく大きな物語として捉えてしまいます。

  1. いつどこで生まれて
  2. どんな幼少期を過ごし
  3. どんな学校を出て
  4. どんな会社に入ったか
  5. だから今のわたしがいて
  6. これからのわたしがいる

たしかに、人生を物語に見立てることはおもしろい作業でしょう。ところが、物語の先には「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます

しかも、その物語に沿った生を送ろうとするのです。

しかし、人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなるでしょう。

「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくことです。